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昨年来、わが国の政治は劇的な進歩を遂げました。平和安全法制の制定は、限定的とはいえ集団的自衛権の憲法解釈変更に対して、実務的な法整備となりました。経済政策の柱アベノミクス「新三本の矢」は、高い目標を設定し、国民全体に実感の伴う景気回復を方針としました。安倍政権の支持率が安定的に推移し一定の評価を得ているのは、目指すべき方向を国民に明確にわかりやすく示しているからだと考えます。

「主権」及び「主権者」とは何か

平成28年のわが国政治の一つの注目点は、7月の参議院議員選挙から、公職選挙法改正による18歳選挙権の実現です。私は、若者世代が18歳から「主権者」としての意識を持ち、社会人としての自覚と責任を果たされることを大いに期待しています。
そこで「主権」及び「主権者」の定義は何か、という問題は重要な意味を持ちます。平成28年4月1日付産経新聞の正論欄に、埼玉大学名誉教授である長谷川三千子氏の『本当の意味での主権者教育を』という論文が掲載されました。全く正鵠を得た指摘と感じました。要するに主権及び主権者とは、「国民主権のもとでは国民は単に支配される者ではない。治められる者であると同時に治める者でもある」ということです。そして長谷川氏はこう続けます。「もちろん、現在のいわゆる議会制民主主義のもとでは、国民が選挙で選んだ自分たちの代表が政治を取り仕切ることになり、形の上では治める者と治められる者とが対立しているようにも見えます。しかし、その代表はあくまでも自分たちの選んだ代表であって、そのことを忘れては、「国民主権」は成り立ちません。たとえば、なにか不満があるたびに「安倍ヤメロ」「日本死ね」と口汚く罵(ののし)ればよいと思っているような人は、とうてい「主権者」とは言えない。それは自分をもっぱら「治められる者」のうちに押し込め、せっかくの「主権」を投げ出している態度と言わねばなりません」。
私は一人の政治家として、政治家の責任を放棄するつもりはありません。しかし民主政治において、「主権」や「主権者」とは何かを突き詰めて考えたとき、私たちはもう一度、今の政治の仕組みや、私たちが採用している民主主義という制度およびその正当性について、真摯に考察する必要があると感じます。ちなみに東京都教育庁では、主権者教育のための手引『民主主義ってなんだろう?』を作成し、都立高校生に配ることとなりました。ご興味のある方はご一読ください。

思い出されるケネディの就任演説

つきなみですが、いまさらながらアメリカ合衆国第35代大統領であった、ジョン・F・ケネディの大統領就任演説(1961.1.20)の最後の一説は、非常に感動的であると同時に、民主主義という政治体制を考えるうえで大変参考になります。ケネディはまず、アメリカ国民に次のように問いかけます。
“My fellow Americans,
ask not what your country can do for you,
ask what you can do for your country.”
「アメリカ国民諸君、
国が君たちのために何ができるのかを問うのではなく、
君たちが国のために何ができるのかを問うてほしい」

次に世界中の人々に対して、
“My fellow citizens of the world,
ask not what America will do for you,
but what together we can do for the freedom of man.”
「世界の同胞諸君、
アメリカが君たちのために何ができるのかを問うのではなく、
我々がともに人類の自由のために何ができるのかを問うてほしい」

そして最後に、彼の理想とする政治哲学を世界中の人々に問いかけました。
“Finally, whether you are citizens of America or citizens of the world, ask of us here the same high standards of strength and sacrifice which we ask of you”
「最後に、アメリカ国民、そして世界の市民よ、私達が諸君に求めることと同じだけの高い水準の強さと犠牲を私達に求めて欲しい」

ケネディはこの就任演説で、まさに民主政治においての「主権」及び「主権者」とは「単に支配される者ではない。治められる者であると同時に治める者でもある」ということを、アメリカ国民のみならず全世界の人々に向かって語りかけたと、私は考えます。そして自身の立場である政治指導者とは、国民に求めた「同じだけの高い水準の強さと犠牲」を求められるべきであり、それに耐えうる強靭な精神と肉体の持ち主でなければならないことを、その後の自らの行動で示そうとしたに違いありません。なぜならそれが、民主政治の正しい在り方であり理想であると信じたからです。ケネディは、理想主義者とも言われた政治家でした。彼が35歳の時に執筆した『勇気ある人々』にも、そうした彼の政治哲学が随所にちりばめられています。

民主政治の正当性を担保するものは何か

中世ヨーロッパの王権神授説という政治思想は、ヨーロッパでの普遍的価値観であったキリスト教を背景として、王が絶対的な主権者とされる政治秩序をつくりあげました。その正当性を担保するものは、旧約聖書の『創世記』の一説でありました。一方、その政治思想には矛盾があるとして、ホッブスやロックは、主権者は国民であるとする近代民主政治の扉を開きました。ここで私たちが考えなければならないことは、キリスト教の教義(旧約聖書の『創世記』)が王権神授説の正当性を担保したのだとすれば、近代民主政治は何によってその正当性が担保されるのか、ということです。
「国民主権」という近代民主政治の基本的理念は、「国民は単に支配される者ではない。治められる者であると同時に治める者でもある」という国民自身の明確な意識の必要性を求めます。そして民主政治は「国民主権」である以上、国民の政治に関わる情熱、または参加の度合いによって、その正当性が担保されるか否かが決まると言えます。それは現代の極めて単純な例をあげれば、選挙の投票率や競争倍率(選挙区の定数に対する立候補者の数)が数字で示すことになります。果たして私たちは、民主政治の正当性を担保するだけの政治的情熱と参加意識を持ち合わせているでしょうか。

政治は国民がつくるもの

民主政治は「主権者」たる国民がつくるものです。
1871年(明治4年)『學問のススメ』初編を書いた福沢諭吉は、その末尾で次のように政治の本質を指摘しました(原文のママ)。
「西洋の諺ことわざに「愚民の上に苛(から)き政府あり」とはこのことなり。こは政府の苛きにあらず、愚民のみずから招く災わざわいなり。愚民の上に苛き政府あれば、良民の上には良き政府あるの理なり。(中略)今余輩の勧むる學問ももっぱらこの一事をもって趣旨とせり」
つまり福澤は、良き政府をつくるために国民が進んで学問にはげみ、明治となったわが国の新しい国づくりに努力しよう、と言いたかったのです。150年後のいまでもなお、福沢の指摘は示唆に富むものがあります。選挙権年齢が18歳に引き下げられることをきっかけに、私たちは改めて「主権者」としての意識と役割を確認し、常に「良き政府」をつくる努力を怠ってはならないと思うのです。

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